昭和47年01月17日 朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
毎朝のことですけども、ここから皆さんに神様の御心というか、御教えというか聞いて頂くためにこうしてお使い回しを頂きます。今日はどういう御理解を頂くだろうかとこう思わせて頂いただけで感動します。その感動がいうなら日々三十分間にわたって皆さんに聞いて頂く御理解なんですよね。どう言う所からその感動が例えばこの御理解七節なんかもそれこそもうあの、それこそどれほど頂いたか分かりませんですね。
これはまぁ私の好きな御理解という様な、そういう意味ではないですけども、もう何回何百回頂いても、その御教えの内容の素晴らしさにね、もう只々驚いてしまうのでございます。ですから皆さんが御教えを頂かれ御理解を頂くでもやはり、本当に今日はどういう御理解を頂くだろうかという一生懸命のものがあって、始めておかげが受けられる、と私は思います。どうでも一生懸命、御理解第七節も何回それこそ何百回ちま、いうなら頂いとりましょうね、ここ二十何年の間に。
何百回(笑)何十回というたが良いかも知れませんけれども。とにかくまぁ数限りなくま、頂いとる繰り返し繰り返し頂いとる御教えですけれども、頂くたんびんに有り難い。あいた、こりゃまた今日も七節、こりゃどげなふうに聞いてもらおうかという思うたことがない。昨夜のご祈念を幹三郎の当番でございましたから、幹三郎がご祈念それから後の御理解を説かせて頂いた。もうお参りし合わせ頂いた者はみんな感激しました。私もここで感動しました。
本人も感動してご祈念をしておる、感動してお話を聞いてもらっとります。本当に私はありがたいと思います。ね、昨日その話の中にね、こういう様な話をしておりました。僕は何事でも一生懸命になる質だと。後で後悔をするということが嫌いですから、その事その事を一生懸命に勤めさしてもらうと。私はこれはね、例えば他の兄弟がそう言うとったら言うたんでは、ピンと来ないかも知れませんけどもね、幹三郎が言うておるその事で、ほんなこつほんなこつとここで思うような気がするんですよ。
今日も昨夜もせっかくご祈念をさせて頂くのですから、一生懸命にご祈念させて頂こうと思います。一生懸命に大祓いを奏上させて頂いとりましたら、もう感動が次から次と起こってきて、ま、本当に有り難いご祈念がでけました。ですからも、一生懸命ということをの中にはね、必ず感動が伴うものだという事です。勿論一生懸命の焦点が違えば違いますよね。信心する者は、何事も信心になれよと仰る。
その何事も信心になれよという、その何をさせて頂くでも、信心にならせて頂くことに、一生懸命になればということなんです。神様に向かうその心というものが、一生懸命、ね、一生懸命のいうなら、こうして寒中修行があっとります。毎朝早うから、一生懸命でお参りをさせて頂いて、そして例えば本当にお参りさして頂いてよかった、おかげを頂いてという実感がないならば、一生懸命のお参りではないですね。
おかげを頂いた、本当におかげを頂いてありがたかったというものがないならば一生懸命じゃないです。一生懸命の者にはもう絶対の感動が、喜びが伴う。ね、そこで一生懸命という事にです、一生懸命というと大変こう難しいようにありますけども、昨日も申しましたことですけども全信奉者お道の信奉者が、みんな生神の道をひたすら進むのだと。目指すところは生神だと。ここでもそれを申しますですね。いわゆるお互いが金光大神を目指すのだと。えらい大袈裟のごたるですけどもね。
私はその金光大神とか神様とかいうけれどもね、決して掛け離れたものでもなんでもないという事。自分の内容にあるもの、それで信心によって磨き出されていくだけのこと。も愈々のとこ究極のとこそこなんです。この御理解七節、一番最後に信心はせんでもおかげはやってあると仰る。神様がおかげはやってあると仰るおかげというものが、あの頂き止めれれる心です。神様が限りなくおかげを下さる。そのおかげをいわゆる頂き頂き止めれる私は信心をさして頂くということがです。
お道の信心であると私は思います。昨日いろいろ昨日特に私午後からの奉仕をさして頂いて、ちょうど五十、五十五分から短い大祓いの間にもう本当にありがたいお取次させて頂きました。その中にある布教所に布教いわゆるお道の教師になって布教に出ておられる安藤先生のお導きで始めてお参りしてきたとこういう。もう布教に出て三年になる。ところが人が助からない。家内は夫婦二人勤めに出ておる。ようやく辛うじて家内の働きで、ま、生活しておる。
先生どういうようなそのおかげを頂きましたら人が助からるようになるでしょうか、というのがしら真剣な願いで話を聞かせて頂いて、さぁーさまざま苦労をしておられる。様々な修行をしてみたといわれる。けれどもまぁだ総代がでけない。五人総代がでければ教会になることができるんですけれど、その五人の信者がでけない、と言われる。まぁだどう確かに教祖の神様は人が助かる事さえ出来ればとこういうのがお道の信心の、ん、ま、いうならば生命である。人がもう問題ではない。
なにがどうだて、人が助かる事さえ出来ればよいとこう。ですから、私自身も、やはりそういう気持ちにならせて頂いて、教祖の神様が人が助かる事さえ出来ればよいと仰ることはどういうことだろうかと。結局は天地金乃神様の願いがね、いうなら天地金乃神様の悲願が、成就していくことの為に、私どもが使うて頂く「?」される私。私が助けようとして、助かる事じゃないのですけども、神様の願いが成就する。神様の悲願が私どもの上に現れてくる。
ある方が息子さんがだんだん高校大学と、大学の受験どうでもその大学にま、通りますようにという願い。だんだんそういう母親の願いというものが最近では願いが大変変わっていられた。ね、私の方の子供の上に天地の親神様がかけて下さっておる願いがどうぞ成就いたしますようにということの願いに変わっておられる。これは私どもの小さい願いというものが成就した以外の事では、信心はせんでもおかげはやってあるというた様なおかげは受け止めることはでけません。
神様の願いが私どもの上に、ね、成就していくところのおかげこそが、神様が限りなしに下さってあるおかげを頂き止めていく事になるのですから。ね、ただ信者がどうすれば助かるかと、世界総氏子の上に天地の親神様がかけてござる願いというものがです、私のところからひとりずつでもその願いが成就していく事の為に私どもは修行さしてもらう。そのためにはです、んなら私ひとりの上に私の上にです。
あなたの願いが成就するのではなくて、あなた先生自身の上に天地の親神様の願いが成就する事を願わなければいけんのではないでしょうか。丸い玉子でも切りよで四角物も言いよじゃ角が立つ、と言う様な事を申しますが、ね、丸い玉子も確かに切りよで四角である。丸い玉子も自分の心次第で角にも三角にもなるものです。ね、本来は丸いものなのです。ね、ですからその本来丸い物、私共の心所謂言葉の使い方ひとつで角がたったり、いうなら三角になったり四角になったりしておるのじゃないでしょうか。
丸い物を丸い物そのまま頂かせてもらうという事、それが私は、ね、私自身が助かるということだと思います。いうならばどういうことでもおかげおかげと頂いていく事なんですよ。人間の、ね、浅い知恵やら力やらで、ああしたならば人が助かるじゃろうか、こういうふうに話したならば人が帰依するだろうかというたようなものではなくて、私自身が助かる。そのためには私自身がちょうど昨日申しましたように、今日はどんなふうな御理解を頂くだろうかという事に一生懸命。ね、
だからそれが有難いものにハハァあの御理解は自分が頂くとじゃない。誰さんにいよるとじゃろう、といった様な頂き方じゃない。円満に丸う頂いていくという事。結局は私自身が助かるより他にありません。だからどういう中にあってもです、どういう中にあっても私が、ね、それを有り難い勿体ないと受けていく以外はありません。どんな場合であってもそういう頂き方がでけておる所に私が助かっておるということがいえます。いうなら天地の親神様の願いが、ね。
先生一人の上に私一人の上にその様に頂ける様になり、そこから現れてくるものがです、私は人が助かると言う事になるのだと。それが中々先生難しい。本当に先生のご承知の通り自分自身が助からなきゃ人が助からん。ね、そこでですいうならば手立てとしてここでは成り行きを大事にするという事を申しております。又は事柄の全てをです私の上に起きて来るその事を御の字を付ける頂き方。所謂御事柄として受けて行く事に徹底精進させて頂いております。ね、
そこから御神意が解らして貰い、そこから御神意に添う生き方にならせて頂こうという気にならせて貰います。とま言った様な事をお話したんです。今日の御理解を頂かして頂きますと、そこんところが天地日月の心になること肝要だということなんです。私自身が助かるということはそういう心の状態になることを繰り返し稽古すること。そこからおかげはやってあると仰る、そのおかげが限りなく受け止めていけれる心というのは、そういう状態。そこに私の心の助かりがあり。
また私の幸せの条件である所の一切のものが頂けるというのじゃなくって。ま受け止めていけれると言う事になるのです。神様の願いというのが、一人一人に掛けられている。その願いが成就していくという事、自分は知るや知らずですけども、ね、私どもが何事も信心にならせて頂いとりますとそういう働きになってくる。そういう働きが起こってくる。昨日内田耕治さん、ちょうど一年前大病をしておかげを頂いた。お礼参拝さしてもらうというので、この連休を通して参らして頂く。
二人の子供連れてからお参り。ところがそのこうちゃんが私の親先生、親先生と言いよるもんじゃから、二人の子供が「?」感じるらしい。親先生ちいゃ岡山しかござらんと思うとるごたる。自分のご縁を頂いておるこうちゃんがあちらへ行っておかげを頂いておる教会、大変可愛かって頂く。それこそ孫のように可愛がって下さる。ですから親先生ちその方と思うとる。それでもう「?」ここの先生が親先生かと(笑)ね。
あんた達はね、岡山、あちら岡山じゃない広島の方でね、広島で、広島の方でおかげを頂いとんだから、あんた達の親先生は広島の先生だけれどもね、お父さんの先生はここの先生が親先生だと説明しよんなさる。でそのまあ、丁度四時のご祈念を終わってでございましたから、茶の間でお茶どもあげて、いろいろ話をさせて頂いたんですけれどもね、も本当にその何事も信心になっておる。この頃からその単車でそのちょっとした事故を起こした。小学校二年生の子供が飛び出して来てぶつかった。
それでもうそれこそ後の石の上に頭を持って行ったそうですから、もう大変もう大変な大怪我じゃろうと思っとった所が、もうほんの足の方をちょっとこうすりむいた程度であった。それでもやっぱりお医者さんに入院してもらって何日か、所がもう毎日お見舞いに行くとその子供がこうちゃん見て言うんだそうです。親父さんすいません、僕は不注意なため親父さんに心配かけてすいませんち。
またそん時もそういわれる、本当にすいませんすいませんと、いうなら本当に両方からすいませんすいませんのでまおかげを頂いて、もう本当に今時は例えばちょっとそのした怪我でも大きな怪我のようにしてからお金を取るとか言う様な時代に、もう私の上にまあ類は類を持って集まるというのは先生本当ですよというてその話した。例えば怪我をさせた相手すらが、自分と同じ様な心の持ち主の人じゃったというて、昨日喜んでおられました。家を貸さして頂いておる。
もうそれこそこんなに立派な家をそれこそただのようにして貸して頂いておる。もう三年ばっかりおかげを頂いておるが、それがこの三月までに明け渡して頂きたいという願いがあっておる。だから家賃やらはいらんとこういう。そんなこちゃない、もうそりゃこんなに喜んで貸してもらったのだから、三月までには必ず出ますと。ね、出るからには立ち退きを取らにゃならんとかいうような事もある中に、そのこうちゃんの場合受け方がもう三年間お世話になったという事がありがたい。
もうそのまあ、お礼を言い続けておるとこういうのである。ところがその教会の先生が、それこそ待っとったといわんばかりにいうておられる事は、とにかくこの機会にこうちゃん、家族中で教会に来てくれとこう言われる。一番始めにこうちゃん養子にされるという事であった。ここに「?」があった。それでお取次させて頂いて、まぁそういうおかげを頂くように。ところがこうちゃんの人間心というのはどうもその教会ま、教師になったり、その教会でもいう事がです、もうまぁだ他に道があるように思う。
いろいろと仕事を増やさせてもろうたり、信心は続けておる。その間に教会ではそれこそ教団の名門といわれる、佐藤一門から、とても頭の良い素晴らしい先生が養子に見えた。けれどもそれは長く続かなかった。そこで今度は九州のま、いうなら大きな教会であります久原から次男坊の方が養子に行かれた。けれどもこれも長く続かなかった。聞かしてもらったら正式に離婚されたとこういう。もうどんなにこうちゃんが逃げて逃げて逃げ廻って、逃げて廻っておるから。
いうならば、もうそれこそ、素晴らしい教会ですから、ごヒレイの立つ教会ですから、もうそれこそ、あまたひくてである。養子に行きたいという人は、たくさんある、だからいうなら名門というか、大きな教会から、そして養子を迎えられるけれども、それ全部ま、壊れていく。ね、そしてならこうちゃんが、今度家をその様なふうにして、今度は出なければならないとなったら、もうそれこそこの機会に、ま、家族中で教会に入って来てくれとこういう願い。
だからそういう事に入って見えて行こうという気でないらしいけれどもです、私はちょうどその前にお取次させて頂いた、そのある先生のお話、それと思い合わせてからですね、神様の願いが成就していくという事は、そういう様なま、過程ですから、海の物とも山の物とも分かりませんけれども、その様な働きが内田耕治の上に起こっておる。だからそういう例えば神様の願いが成就していく為に、んなら、こうちゃんの所謂信心生活なんですね、家の事に又は事故の起こった時の又は。
去年自分が大病した時の事、そん時の例えば物の見方とか教え方とか受け方がです。所謂天地日月の心に叶えておる。その事に例えば、ね、教会に入るとか、先生になるということだけではまぁだそこに抵抗があるけれども、その他の事についてはです、日常生活の上にそういう生活が一生懸命でけておる。そこでです、私はぼちぼちいうならば神様が信心はせんでもおかげはやってあると仰るようなおかげの頂けれる場というか、そういう働きがそこに起きておるという。
まぁね、神様の働きの中間のことですから、なんともいえませんけれども、ではなかろうかという気がするのです。向こうの先生もお取次を頂いて、ね、ここの信者でありますから私にお取次頂いてのお願いがあっておる。こうちゃん自身もそん時、その気になってお願いをさして頂いておったことなのですけれども、その後、ね、自分の都合、自分の人間心で、こういうなら逃げて廻っとるような感じ。
だからもう諦めて、次々と養子をそういう素晴らしい所から素晴らしい先生を養子にされるけれども、それもひとつひとつ崩れていく。ね、そして是はどうでも親子四人で教会に入らにゃならんかも解らん様な所まで今いうならば先生の願いというものがです。天地の親神様の願いというものが、成就しかかっておるといった様な感じなんです。ね、私昨日その事を聞きながら、申しはしませんでしたけれども、ね。
本当にもう本気でひとつ成り行きを大事にしていかなければいけないなというて、ま、申しましたことでした。信心はせんでもおかげはやってある。私はお道の信心は神様がもう限りなしに下さってあるおかげをね、頂き、頂き止めれる姿勢を作ることが信心だと思うんです。それを天地日月の心と説いてある。天地ははやることもなからなければ、終わりもない。そういうひとつの天地の法則というか、システムというものは、ね、それこそ何千年経っても何万年経っても変わりはない。
変わりのないおかげをいわば私どもが変わりのない心、いうなら天地日月の心。教祖様のお言葉を借りると実意丁寧神信心、何事にも信心になれよと言う事である。ね、そういう心でです天地日月の心でです、しかもその心で願う事が愈々、ね、大きくなっていくと言う事が信心が成長していっておる事だと私は思う。只またいかに天地日月の心であっても、ただ私一身一家の事ではなくて。それを天地日月の心を持って愈々例えば、ね、人が助かる事さえできればという精神を持って私がご用さして貰っておる。
小倉の桂先生がねこの名教を世界、世界中に轟かさん輝かさんという念願をたてておられた。そういう念願を私どもがひた受けに受けさせて頂く心構えというか、その実感が最近ようやくにして私の心の中に湧いて来た。勿論それが我情我欲での願いではない。天地日月の心にならせて頂く事に焦点を置きながら願いが段々大きくなっていった。それがね、和賀心時代を創ると言う様な事になってきた訳であります。
記念祭を目指して西脇殿のご造営の事、この事とても、神様の願いがそこに西脇殿ご造営という形になって起こって来た。だからそこに一生懸命の心を使い、いわゆる天地日月の心になること何事にも信心になれよ、いゃ一生懸命になれと。一生懸命になる、そこには必ず喜びがある、感動がある。ご造営ご造営というておるけれども、ご造営の事を一生懸命お願いしよったら、心の中に喜びが湧いてくるそういうところまで願わなければだめ。一生懸命ということには必ず感動がある。
それを昨日、幹三郎の夜の御理解から聞いて頂きました。ご造営といよるけれどもご造営の事を一生懸命願い、思わして頂き、祈らして頂きよったら心の中に感動が湧いて来た。その感動がおかげの受け物であり、または自分自身が助かっておる姿でもある。信心はせんでもおかげはやってあるというおかげ。そのおかげを受け止めさせて頂く稽古。私は教団でいっておられます、教団でも現在あのような大した大事業が起こって、いわゆるご造営があっておりますが。
それがお取次成就信心生活運動の一環としてという表現でいわれております。御取次成就信心生活運動の一部分として、ご造営が成就するということはえらぁい難しいこといわれるなぁと思うとったけれども。今朝その事が本当に実感としてですね、やはり天地の親神様の願いがです、あの様にして現れておるその事に私どもがいわゆる奉賛させてもらう。一生懸命、しかも喜びというものがつながっておるほどしの一生懸命を、ね、いうなら感動が湧くところまで一生懸命にならせてもらおうということ。
例えばそれはご造営という事でもなくても良いかも知れん。これは神様の心に叶うこと。ね、これは神様が喜んで下さる事ということに見極めが付いたことに対してです。私どもが一生懸命にならせてもらうならば、そこに必ず感動があるだろう。これは私自身の事でも良い。自分ひとりの事でも良い。本気で神様に喜んで頂けれる、いわば人間氏子にお取立て下さい、という願いが切実であるならば、必ず感動が湧くでしょう。ね、そこで自分の生き方を正させてもらう。
神様の御心に叶う、それをなら天地日月の心というならばです、天地日月の心になる事をいよいよ精進さしてもらう。しかもそれが一生懸命であるならばね、そこにほんとにこうにじむおかげ頂いてという感動になってくる。喜びになってこないはずがない。自分が一生懸命であるようであるけれども、まぁだ感動すら伴わないとするならば、これはまだ自分は一生懸命は、本当なものじゃないと悟らせて頂いて、神様が下さってあるところのいわゆるおかげはもうすでにやってあるというおかげをです。
私どもは左右にしていきよる。受け止めていっきりよらん訳ですから、それを受け止めさせて頂くことによって、天地の親神様の願いも成就することになる。と同時に天地の親神様の願いが、成就する。その過程においてです、まぁ内田こうじさんの例を取りましたですね。私どもが、例えば願いを立てる。どうぞ大学に入学がでけますようにというて願いよった母親が、例えばもうこの大学を卒業したなら、どうぞ良い就職にと、就職のおかげを頂くようにというて願うのが本当のようですけども。
信心が段々分かってきた。神様の心が分かってくればくるほどです、大学を卒業したところから願いが変わって来た。どうぞ私の方の子供が、子供の上にかけられる願いが、成就してまいりますようにというて、ね、ちゃんとお初穂の肩書に書いちある。自分の子供の名前を書いて、どうぞ神様の願いが、氏子何々の上に、ね、実現でけます、現れてまいりますほどしのおかげをお願いしますという事が書いてある。
そういう願いに、私どもが立てさせて頂く時に、いわゆる金光様のご信心が、本当の名教だといわれ、本当に名教のといわれる、金光教の信心に御神縁を頂いとる、値打ちというのは、そこからです。ただお願いをする、ただ頼むという間であったら、ね、私それはわざわざ合楽ではなくても、金光教でなくても良いように思います。けども神様の願い、悲願がです、ね、金光大神を通して、現われなさる、という事は他の宗教では、私はでけそうにもないと思うのです。
他所の事は分かりませんけれども。ね、金光大神お取次を頂いて、ね、そして天地の親神様の願いが、私の上に現われてくるこそ、ね、神様がいよいよ下さろうとする、いゃ下さるであるところのおかげをです、頂き止めていくということになるのです。徳のない間は心配をする、神徳を受ければ心配はない。ね、神徳ということは、私どもが神様の願いが、私の上に間違いなく現れていく姿が、神徳の神徳というのは、見ることも聞くことも実際はでけないといわれておりますけれども、ね。
神様の願いが、ね、私の上に現れていく姿が、神徳が現れておる事になるのです。神徳が現れると言う事は、ね、神様の願いが成就して行く事になるのです。そういう私の上に神様の願いが成就しておるんだと、実感が湧く所まで、信心をさして頂かにゃいかん。してみると私は、成程心配はない事にない事になって来るのではなかろうかと。ね、その場面ではそれは苦しい事か。悲しい事かも分かりませんけれども、ハハァーこの様にして神様の願いが成就しておるんだと分からしてもらう時にお礼をいう心。
いうならば心配する心は、微塵もなくなってくる訳です。だからそれが神徳だということが言えます。天地日月の心になるという事は、とりもなおさず神徳を受けていくための、いわば日常生活の焦点なのです。どうぞ、あぁなりますように、こうなりますようにという願いは、それは実に小さいこと。どうぞ大きな願いがです、神様の願いが、私の上に皆さんひとりひとりの上に現れてくるおかげを頂いてもらいたいと思います。
どうぞ。